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最高裁判所第一小法廷 昭和58年(あ)1436号 決定 1984年9月20日

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人嶋倉〓夫の上告趣意は、事実誤認、単なる法令違反、量刑不当の主張であつて、刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。

所論にかんがみ、職権をもつて判断すると、記録によれば、第一審判決が被告人を罰金刑に処し、その刑の執行を猶予したため、検察官が量刑不当を理由に控訴したこと、原審において、検察官が、刑訴法三八二条の二第一項にいう「やむを得ない事由」があると主張して、第一審では取調請求していない被告人の前科調書、交通事件原票謄本四通及び交通違反経歴等に関する照会回答書の取調を請求し、原審がこれらを取り調べたことが明らかであるが、原審が右前科調書等につき、右「やむを得ない事由」の疎明があつたものと判断したのか否かは必ずしも明らかではない。しかしながら、右「やむを得ない事由」の疎明の有無は、控訴裁判所が同法三九三条一項但書により新たな証拠の取調を義務づけられるか否かにかかわる問題であり、同項本文は、第一審判決以前に存在した事実に関する限り、第一審で取調ないし取調請求されていない新たな証拠につき、右「やむを得ない事由」の疎明がないなど同項但書の要件を欠く場合であつても、控訴裁判所が第一審判決の当否を判断するにつき必要と認めるときは裁量によつてその取調をすることができる旨定めていると解すべきであるから(最高裁昭和二六年(あ)第九二号同二七年一月一七日第一小法廷決定・刑集六巻一号一〇一頁、同昭和四二年(あ)第一二七号同年八月三一日第一小法廷決定・裁判集刑事一六四号七七頁参照)、原審が前記前科調書等を取り調べたからといつて、所論のようにこれを違法ということはできない。

よつて、同法四一四条、三八六条一項三号により、主文のとおり決定する。

この決定は、裁判官谷口正孝の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

裁判官谷口正孝の補足意見は次のとおりである。

一 私も、本件において、原裁判所が第一審裁判所において検察官が取調請求していない被告人の前科調書、交通事件原票謄本四通及び交通違反経歴等に関する照会回答書を検察官の請求により取り調べ、被告人に対する量刑資料としたことに違法視すべきところはないと考える。法廷意見に賛成するものであるが、事は、控訴審における事実の取調という困難な問題に係るものであるから、一言私なりの意見を補足しておきたい。

二 控訴審における事実の取調について、刑訴法は三九三条一項及び二項に規定をおいている(但し、二項の規定は本件の場合考える必要はない。)。

ところで、記録によれば、原裁判所において検察官は前記各証拠を第一審裁判所において取調請求することができなかつたことについて「やむを得ない事由」があつたとして、釈明のうえ、その疎明資料の取調請求をしたところ弁護人の不同意により検察官がその取調請求を撤回したのであるが、原裁判所は右各証拠を取り調べているのである。右訴訟の経過に鑑みると、原裁判所は検察官の釈明により同法三八二条の二第一項の疎明があつたものとして右各証拠の取調をしたものか(この場合は同法三九三条一項但書の規定により必要的取調となる)、それとも同法三九三条一項本文の規定により検察官の請求により取調の必要があるものと認めて裁量を以てその取調をしたものか必ずしも明らかでない。検察官が前記の如く同法三八二条の二所定の疎明資料の取調請求を撤回したに拘らず、原裁判所が右各証拠を取り調べた所以は、右三九三条一項本文の規定により原裁判所としては裁量的に検察官の請求を容れ右各証拠を取調することができるものとの見解に出た措置と考えるべきであろう。論旨も又そのことを前提として原裁判所の証拠調の措置を違法として論難している。

三 さて、控訴審における事実の取調については、見解が岐れている。控訴審はいわゆる事後審であつて、控訴理由としての事実誤認、量刑不当を主張するについては、訴訟記録及び第一審において取り調べた証拠に現われた事実に基づいて第一審判決の事実認定、刑の量定の不当を攻撃する仕組みとなつている(同法三八一条、三八二条参照)。従つて、控訴審における事実の取調は当然制約を受けざるを得ないわけで、控訴審が第一審において取り調べられなかつた証拠を新たに取り調べるについては、同法三二八条の二所定の場合がその唯一の例外であるという主張が有力に展開されている。弁護人の所論もこれと同旨の見解に出たものである。確かに傾聴すべき見解であることを認めるのに吝かではない。

然しながら、控訴審が事後審構造をとるからといつても、事後審構造の内容をどのようなものとするかは、立法政策の問題であり、特に訴訟運営の実態を勘案してこれを決めなければなるまい。陪審制をとる訴訟制度のもとでは、事後審の構造はまさに原判決の当否の判断に終始するのが筋であろう。然し、わが国の訴訟制度はそれと趣きを異にする。もし、わが国の控訴審が唯単に訴訟記録及び第一審裁判所が取り調べた事実のみに依拠して第一審裁判所の事実認定についてその心証形成の過程を追試し、第一審判決の事実認定、量刑の当否を判定する判断に終始するものであれば、経験則違背等極めて例外の場合を除いて第一審判決を維持するという結果に終るであろう。第一審裁判所における弁護側の防禦活動に十全を期し難い現在の訴訟運営の実態を考える場合、刑訴法の理念とする実体的真実発見を逸するおそれがあるばかりか、その結果は被告人の不利益に帰することともなりかねない。昭和二八年法律第一七二号によつて同法三八二条の二が改正追加されたのもこの辺の事情を踏まえてのことであつた。もつとも、同条の規定する「やむを得ない事由」によつて第一審の弁論終結前に取調を請求することができなかつた証拠の意味についても明確ではない。あるいは、物理的不能に限るといい、あるいは心理的不能の場合も含まれるというふうに学説は対立している。最高裁判所判例は、前科調書の記載洩れの場合について本条に該当するとしている(同裁判所昭和四八年二月一六日第二小法廷判決・刑集二七巻一号五八頁)。物理的不能説を採用したとしても十分理解できる判例であるが、いずれにしてもこの点についての最高裁判所の判例の立場はこれ迄のところ必ずしも明確に示されていない。「一審で当該証拠を提出する必要がないと思つていた」という心理的不能の場合までを右にいう「やむを得ない事由」に含まれるという考えをとるならば、本件の如き道路交通法違反被告事件において検察官が罰金刑の求刑をする場合まさか罰金刑について執行猶予の言い渡しがあるはずはあるまいと思つて、道路交通法違反の前科、前歴等に関する証拠の取調請求を怠つた場合も右の心理的不能の場合に含まれるのかもしれない。然し、心理的不能説にいう「一審で当該証拠を提出する必要がないと思つていた」という基準はあいまいであり、証拠調請求について新たな争訟を作ることにもなりかねないと思うのである。心理的不能説は当事者の救済を意図したものではあろうが、右の問題点がある以上この説に左袒することには躊躇を感ずる。そして、もともと、この説が「やむを得ない事由」をここまで拡げたのは、控訴審における事実の取調を極めて厳格に解したからである。

四 私は、右の「やむを得ない事由」というのは、物理的不能の場合に限ると考えるが、同時に同法三九三条一項所定の控訴審における事実調については、同項但書所定の同法三八二条の二の「やむを得ない事由」の存したことについて疎明があつた場合は、控訴裁判所としては常にその新たな証拠を取り調べる義務を負うが、同項本文の場合は、裁量として新たな証拠を取り調べることができる旨を規定したものと考える。蓋し、控訴裁判所は、同法三七七条乃至三八二条及び三八三条に規定する事由に関しては、職権で調査することができるわけであり(同法三九二条二項)、その調査のために必要があるときは証拠調をすることができるのである(同法三九三条一項本文、三九二条二項)。この場合、控訴審の構造が事後審構造だからというだけで新たな証拠の取調を極めて制限的に解することには前記のような疑問を残すばかりか、職権調査の実質を失わしめることにもなりかねない。もとよりこの場合職権調査といつても、控訴裁判所が記録並びに第一審裁判所が取り調べた証拠を検討し第一審判決の事実認定、刑の量定について首肯し難いところを認めた場合に限られることは当然である。このことと対比してみても、当事者の請求による新たな証拠調について同法三九三条一項但書所定の場合に限定して解することには賛成しかねる。私は法廷意見に引用する同法三八二条の二の規定追加前の事案に関し最高裁判所判例が控訴審における事実の取調について説示するところは、同条追加後もなおその趣旨において維持されるべきものと考える。なお、このように解することは、第一審における証拠の集中的取調、第一審訴訟手続の重視に毫も影響を及ぼすものでないことはいうまでもないことである。

(角田禮次郎 藤﨑萬里 谷口正孝 和田誠一 矢口洪一)

弁護人嶋倉〓夫の上告趣意

一、総論

本件については道路規制の不当性、行為についての危険性の希簿さ、ならびに動機よりいつて可罰的違法性がないか、あるいは極めてそれが軽微であるにも拘らず原判決は規制の不当性を看過しかつ行為の危険性に関し重大な誤認をなし、違法に被告人の前科を認定し、又動機を不当に軽視することによつて有罪認定をなし、第一審の執行猶予付判決を破棄して罰金刑を言渡したものであり、原判決には判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認があり、かつ法律の解釈につき重大な誤りがあり、又その刑の量定が甚しく不当である。よつて原判決は破棄されるべきものと思料するものである。

二、道路規制の不当性について<略>

三、行為の危険性について<略>

四、前科の認定について

原判決は被告人の前科につき四回にわたり速度違反の罪で罰金刑に処せられているものと認定した上で被告人が速度違反等の交通違反の常習者であると断じている。しかし右前科認定の証拠となつたのは控訴審においてはじめて検察官より提出された前科調書等である。しかしこれらの前科調書等を控訴審において証拠として採用することは許されるであろうか。すなわち刑訴法三八二条の二第一項にいうやむを得ない事由が本件で存在したのであろうか。控訴審の立会検察官は罰金求刑の場合は厳密な前科照会をしないのが通例であり第一審において前科関係の証拠を出さなかつたのにはやむをえない事由ありとの主張をなし裁判所は、これをいれたが右のような取扱いが通例とはとうてい考えられないし現に控訴審において提出された藤掛芳信作成の「前科調査について」と題する書面では明白に「照会方を失念した」旨の記載があるのであつてこれは罰金求刑の場合でも前科照会をすることこそが通例であることを物語るものである。第一審において検察官が前科関係の証拠を出しえなかつたのは前科照会失念のために他ならず国家権力を背景にして強大な捜査権を有する検察官においてとうてい許さるべき事柄でなく法三八二条の二第一項のやむをえない事由ありとは、とうてい考え得ないものである。右の点につき安易に検察官の主張をいれ前科関係証拠を証拠として採用した原判決には法律の解釈を誤つた重大な違法がある。

なお又、被告人の前科の内容を仔細に見れば、主な違反である速度違反についてはいずれも二〇キロ未満であり、取締当局は事実上、十二キロ、十三キロ程度の違反では検挙していないという現実(公知の事実である)に照らせば処罰価値あるギリギリの違反である。又踏切一時不停止の反則行為についてもその具体的内容は不停止か否かにつき被告人として弁明の余地があるものであつたのである。

又、本件以後今日まで一年有余、被告人は仕事のため日常的に車の運転をしながらも無事故無違反であり判示のごとき交通違反の常習者では決してないのである。

五、動機について<略>

六、結語

よつて、被告人は可罰的違法性がない故に無罪であるかあるいは仮りに有罪であるとしても、執行猶予付罰金刑が相当であり、原判決は破棄されるべきである。

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